昭和49年07月07日 特別奉修員



 神信心にはしんぼうする事が一番大切で御座いますと、三代金光様は教えておられますが、本当に、辛抱のしきれない様な事があるけれども。そこんところをご神意を頂き頂き、辛抱させて貰うたり又辛抱せねばならんほどしの事柄が、かえって有り難い事だと気付かせてと頂くような、受け方ができるようになると言う事が信心で、ただ辛抱しとけばそこからというけれども、辛抱をするしないと言う事で大変な人間の幸、不幸の分かれ道があるわけですよ。
 今福岡の野中さんからのお届けだったんですけども、息子さんが東京に修業に行ってます。ところが手紙が来て、どうも帰りたい様な事を言うて来ておるから、そら親としても、もう手元に置いとったほうが良い位ですし、私達が考えてもそうかも知れんと思うんですけどもね。その事を丁度御祈念前でしたから、神様にお願いさせて頂きましたら、忠臣蔵のね、松の廊下んとこを頂くです。内匠頭と塩谷判官と所謂、あの高師直(こうのもろなお)との、悪言雑言の所にも辛抱し切れずに刃傷沙汰になると言う。
 だからあそこん所が、もし金光様の御信心でも頂いておったらですね、有り難う受けて行けれるところをです。それこそわがまま一杯に育った、殿様の事ですから、辛抱が出来なかった。しかもそれには自分の命も掛けられておれば、自分の一族郎党がね、路頭に迷わなければならない様な事が、辛抱と辛抱じゃ無いのとは、そんなに開きがあるんです。人間の運命をめちゃめちゃにしてしまう様な事になってくるんです。例えば今そんならもう早う帰って来いと言うと、楽なごとあるけども。
 そこで松の廊下のそれを頂くと言う事は、自分の一身上にも家の上にも大変な、それが狂いのくる元になると言うのです。だからさぁここはいっちょ、信心辛抱し抜かせて貰わなきゃいかんぞ、というところ。ただ歯を食いしばって辛抱するだけでは無い。神様におすがりをして、辛抱していくのぞと言う所から、御神意が分かって来るようになり、そしてどういう様な場合であっても、御神意が分かると辛抱ではなくて、有り難くそこん所を受けて行けれるようにも、勿論なっていくわけなんですけれども。
 その前提としてね矢張り信心辛抱。金光様をお唱えして親先生をおすがりさせて貰うてからの、辛抱ですから辛抱がしよい。是はね繰り返し信心辛抱と言う事を言われる事ですけども。その信心辛抱と言う事ただおかげに繋がるというのじゃなくてね。そこん所が、家の重大事自分の破滅と言った様な事にまで繋がる様な事があるから、辛抱する所は辛抱し抜かなければいけないと言う事なんです。そりゃ信心辛抱させて頂く事。
 今合楽食堂の中村さんが、お届けしておられるが、そりゃ辛抱し切れない様な事もあって、何回もお届けをされました。けどもまあ放任して放任しておかげ頂いて、おかげ頂いてということじゃった所が、もうそりゃ今話を聞かせて貰うと、そう言う事になるもんじゃけんのと言うごたるおかげになっとるです。それが例えば辛抱し切れんで、もしさあどうじゃったいっとた、こうじゃったと言ったらそれだけでもこんがらがってしもうて、今日の御理解じゃなかばってんもうその事からだけでもです。
 お互いが嫁と姑なら嫁と姑の場合なんかは、もう何か知らんこだわりが出来るです。中村さんも今言われるように、本当に淡々として、それが受けられると言う事なんです。しかもそういう、何とも言えん働きになってきておると言う事なんです。だから辛抱し抜くと言う事と、でないと言う事は、とにかく右と左というごと違うてくると言う事ですよね。成程神信心には辛抱する事が、一番大切でございますと言う事が、改めて分からせてもらう気がしますね。
   どうぞ。